もちろん、観客が情報のShareに向かうかどうかを決める最大の要因はその体験の中身です。であった情報や出来事が新しかったり、珍しかったり、美しかったり、あるいは感動したり、共感したり、驚いたりしたときに、その体験を語りたいという欲求が生まれるわけですね。中身がつまらなければ無視されるだけで、反応してくれる人はいません。
肝心なのはあくまで中身だ、という当たり前のことを確認したうえで、空間というメディアが情報連鎖を促すうえで大切な条件について考えていきたいと思います。
第一に、与えきり≠ノしようと考えないこと。つまり、その場で説明をすべて完了させようなどとは思わないことです。
情報空間のつくり手は、とかく「言うべき情報は漏れなくすべて伝えよう」と考えがちです。なにからなにまで、正しい理解≠ノ必要な情報を網羅した「完全なる説明」を目指そうとするわけですね。だから、たとえば、長文の説明パネルがベタベタ貼られたり、教材ビデオのような解説映像がそこかしこで流されたりする。その場で一から十までを与えきり≠ノしようと考えるからです。
そして、多くの場合、そこにはもうひとつの動機が隠されています。それは「言うべきことはちゃんと語っている」というエビデンスを残しておきたいというつくり手側の事情です。必要最低限の情報をすべて露出すれば、クライアントに対して「全部説明してある」と言えますからね。枕を高くして寝られる(笑)。
でも、空間は百科事典ではありません。喩えていうなら、「本の代わり」ではなく、「本を読みたい」という気分にさせるためにある。仕事はあくまで背中を押す≠アとです。
つまりミッションは観客にフックをかけること。この意味でいえば、少し欠乏感があるくらいでちょうどいい。観客の自発的なアクションを許容するある種の「隙」や「遊び」が情報をShareしたいという気分を掻き立て、「探索」→「編集」→「共有」のサイクルを発動させる契機につながる。先ほどお話した通りです。
過ぎたるは及ばざるが如し。観客にすべてを覆い被せて詰め込もうとするのは損だし、少なくとも空間の有効な活用方法ではありません。