だから、メディア空間をつくるときに、「タ−ゲット」に「メッセージ」を「デリバリー」すると考えない方がいい。
ターゲットではなく共に考える「パートナー」であり、メッセージではなく共に考える「話題」であり、デリバリーではなく「共有」です。すなわち、目指すべき状況は「パートナー」と「話題」を「共有」することなのです。
情報が正しく伝わることも大事だけれど、より大切なことはその情報が触媒となって次々と情報が再生産されていくこと。「日本人はシュークリームが好きだ」という事実を知って終わりではなく、「それは我々にとってどんな意味をもつのか」「それが我々にもたらすものはなにか」といった反応が連鎖し、それが次のアクションへの引き金になる。先ほどからShareとか対話とか言っているのはそういう状況のことです。
繰り返しお話しているように、ぼくたちの中には「探索」→「編集」→「共有」のサイクルを前提にした新しい情報観が芽生えつつあります。これに対して、先の官僚の発想は「開示」→「学習」→「消化」。これではベクトルの向きが完全に逆です。
さて、そう考えていくと、そもそも「私は○○を知っているから教えよう」「私が言いたい○○を伝えよう」というアプローチ、すなわち「知る者が知らざる者にメッセージする」という図式そのものを問い直さなければならないのかもしれません。
やるべきことは相手を説き伏せるための「レクチャー」ではない、とぼくは思います。
空間でなにかを伝えようとするとき、ぼくたちは往々にして演説をしたくなります。気がつくとまさに「街頭演説」状態になっている(笑)。
叩き込むのではなく、気づかせることを考えるべきです。
近年、「創発」という概念が注目されているけれど、その前提になるものがこの「気づき」であり、それらが反応しあう「知の連鎖」です。
保守の典型である大学でさえ変わりはじめています。講義ノートを読み上げるだけの教員は淘汰され、学生が気づきを得られる環境を準備し、生き生きとした活動に導くスタイルへの模索が続いているのです。