第2部で、「わかる」とは「腑に落ちる」こと、すなわち情報が実感として身体の中を通り抜けることだ、という話をしましたよね? ウナギの煙に巻かれた瞬間に、喰うか喰わないかという土俵に引きずり込まれている。情報が身体化されるからです。
そして、情報を身体化する最強の回路、それが「感動」です。
特別な状況の話をしているわけではありません。「うわぁー、このビール、旨い!」。これだって感動です。もし相手を感動させることができたら、その時点で相手は落ちている。感動とはまさしく「他人事」の対極にある身体感覚ですからね。
さっきも言ったように、メディア空間をつくるとき、ぼくたちはついつい演説してしまいます。下手をすると説教にさえなっている。
いわゆる「プレゼンテーション」はみなそうだけど、言っていることは多少大袈裟ではあってもウソではないから(笑)、説得力のある話なら聞く方はだいたい「納得」はします。話の中身が期待を超えて素晴らしければ「感心」するかもしれない。でも「感動」するかどうかはまったく別の話です。
では、どういうプレゼンテーションにぼくたちは感動するのか?
ぼくは実にシンプルに考えています。それは、つくり手の志に共感したとき。ぼくたちはプレゼンテーターの志に共感できたときにはじめて感動するのであって、必ずしも語られる情報そのものの価値で決まるわけではない。
共感には二つの側面があります。「自分と同じ方向を向いている」という実感と「自分をわかってくれている」という信頼です。プレゼンテーションにこれを感じることができれば共感できる。バンコクのプロジェクトが現地に受け入れてもらうことができたのは、この両方を提供することができたから。
新しい感覚で情報と向き合う大衆はいま、「説得される」よりも「感じてわかる」ことを望んでいます。スペックや評論家のレポートより自分が共感できるかどうかを基準に判断したいと願っている。
正確に伝えたり、上手に説明するだけではダメなんです。Shareと対話の思想が要る。
「発見」から「共感」へ。そして「感動」へ。これが理想のプロセスです。