要するに、情報とは相手に「打ち込む」ものではなく、「Share」するものなんですね。
「Shareする」とはすなわち、相手も自分の問題としてその情報に向き合うこと。もしメッセージというなら、それは「オレの言い分を覚えて帰れ」ではなくて、「いま話しているのはオレのことだけど、キミにも関係あることかもしれないから、一緒に考えないか?」というものであるべきなんです。
もう一度、バンコクの「日本デザインの遺伝子」展を思い出してください。「日本のデザインがいかに優れているか」を演説したりしていないし、まして「日本からのメッセージ」を連呼するなんてことは一切やっていません。日本のモノづくりには独自の遺伝子が作用していることを実感・体感できる空間をつくっただけです。「日本人は多様な遺伝子を大切にしていて、それが組み合わされることで固有の特性を生み出している」ことが説明なしに肌でわかるようにしただけ。
タイ人が見るのだから、次には当然「じゃあ、タイはどうなの?」という話になります。この段階で「モノづくりの遺伝子」というテーマが「タイの問題」になる。すなわちShareされるわけですね。しかも、坐って教材ビデオを見るのと違って、空間体験を通して自分で掴み取る構造だから、なおさらそうなる。
意識がタイ自身に向かった場合、それと引き換えに日本のことを忘れてしまうかといえば、もちろんそんなことはありません。逆です。きっかけを与えてくれた存在として、また対照する相手として常に意識に残る。そう思いませんか?
もちろん、商品のスペックや企業のIR情報のように、事実を正確に伝達することをミッションとする情報訴求もあります。あるいは映画のように情報を完パケにしなければ意味をなさない形式もあるでしょう。
しかし、少なくとも、それは空間の仕事ではありません。スペックを伝えたいならパンフレットを配った方がいいし、2行のメッセージ≠伝えたいなら他のメディアを探すべきです。
空間の仕事は「通知」や「送達」ではなく、「Share」であり「対話」なのです。