この人は「メッセージ」という言葉が大好きだったけど、ぼくは空間メディアを単純なメッセージデリバリーの道具だと考えること自体が間違いだと思っています。
考えてみてください。彼の基準に従えば、出口で10人中8人が「日本人はシュークリームが好きだ」と言えたら大成功、5人だったらまずまずで、2人だったら失敗(笑)、という話になりますよね? あるいは、こちらの言い分を無修整で受け取ってもらえたら成功で、受け手の側がなんらかの解釈を加えたら失敗。そういうことでしょう?
この考え方の前提にあるのは、送り手から受け手に送られるメッセージとは一義的なものだし、そうあるべきだというナイーヴな情報観です。この漢字の読み方はこれが正しくそれ以外は間違い、というのと同じものだと考えている。まさに漢字テストの世界(笑)。
空間メディアは教育の場ではなく対話の舞台です。
だからこそ、受け手の心にしっかりと届かなければならないわけですが、送り出した情報が相手に深く染み込むかどうかは、送り手の意図が「正しく」伝わっているか否かとは別の話です。小説でも映画でもドキュメンタリー番組でもそうだけど、それを見て心に響くかどうかは、つくり手の意図や狙いを正しく理解したかどうかで決まるわけではありません。そもそもコミュニケーションに「正しい」コミュニケーションと「間違った」コミュニケーションなんてない。
逆なんですよ。どんな表現ジャンルでもそうだけど、つくり手はいろいろな意味を注ぎ込んで情報内容を構築していく。でも、送り手とは立場や人格を異にする受け手は、それぞれがそれぞれの立場から情報の意味を再構成する。同じものを見ても人によって反応は違うわけで、一方的かつ一様にメッセージを打ち込むことなんてできないし、同じものを見せれば全員が同じように受け取ってくれるはずだと考えるのはあまりにナイーヴです。
やるべきことは啓蒙ではない。「これが正解だ」と口角泡を飛ばして演説したところで、相手が自分の問題と捉えてくれなければ「知っているカゴ」に入るだけ。
伝えるんじゃなくて、捕獲してもらう。覚えてもらうんじゃなくて、「わかった!」と言わせる環境を揃える。目指す方向はそっちです