では次に、これからもつべき戦略と心構えの二つ目「情報の送り手と受け手という枠組みから発想しない」、すなわち「情報を授けるものと考えない」に話を進めていきましょう。
要するに、情報の送り手の仕事は相手にメッセージを打ち込むことであり、こちらの主張をしっかりと刻印することなのだ、みたいには考えない方がいい、ということです。
オーディエンスはメディアに操作されるだけのパッシブな存在と思われていたのは戦前の話であって、いまどきそんな風に考える奴はいないよ、と思われるかもしれません。でも、実際にはいまでも大半の制作現場はこの認識を前提にしていると見ていいとぼくは思います。自覚的にそうしているわけではないとしても、無意識のなかでそれを前提にしているし、拠り所にしている。
以前、ある仕事で一緒になった官僚の発想がまさにこれでした。海外で日本をプロモートする類いの展示を計画していたのですが、彼は「観客全員にこちらの主張を凝縮した2行のメッセージ≠叩き込みたい。出口から出てきた観客がみなメッセージを復唱できるようにもっていくのだ。その2行を徹底して刷り込め。それだけを考えればいい」と言うんですね。
そして「全員に同じメッセージを伝えるためには、全員に同じ体験をさせねばならない。だから、ベルトコンベアのような構造にして、放っておいても全員が同じものを見るようにしろ」と言いました。
こちらの言い分を力づくで相手に打ち込むことしか頭にないし、そのためには相手の自由を奪って強制すれば効果が上がると考えている。発想の根底にあるのは、よく言って「教育」、はっきり言えば「洗脳」です。観客を吸い取り紙のように見ている。
「中心」にいる選ばれたエリートが「末端」の大衆を啓蒙する、という前世紀的な情報観の最たるものだけど、そんなやり方で他国・他民族の人たちに受け入れてもらえると考えていること自体がぼくには驚きでした。