バンコクの「日本デザインの遺伝子」展を思い出してください。情報を塊にしてそのまま丸のみさせよう、という発想とは正反対の構造になっていましたよね? やはりこれも「脱・完パケ」を貫いてつくったものなんです。
たとえば、観客が情報を自ら掴み取る「探索の場」にしたいというコンセプト。テレビのように一から十まで与えることを止め、観客が自ら編集していく空間を目指そうと思いました。だから森をモチーフに空間を組み立てた。テレビ視聴ではなくバードウォッチングのような体験空間をつくりたいと考えたわけです。
あるいは、情報を重層させて連想を喚起することを狙いました。カテゴリーの異なる情報を同時に重ねて見せることで、探索しているうちに次々と連想が広がっていくような環境がつくれないか、と考えたわけですね。だから、展示室のどこにいてもあらゆる展示が見えているし、情報が三次元で積層している。
すべてを決めず、最後まで語らない。映画や小説のようにラストシーンを目指して一直線に進む構成にはしないし、教科書のように第一単元から順に学ぶ構造にもしない。まさに完パケとは真逆の思想で空間をつくったわけです。
先ほど言ったように、展示を中核にした情報空間の大半は完パケ送達型です。身の回りの展示施設を思い返してみてください。美術館の特別展、見本市の展示ブース、博覧会のパビリオン、テーマパークのアトラクション、企業のショールーム……、その多くが情報をSolidな「完成品」にして「プレゼンテーション」しているのではないかと思います。
しかし、展示という方法を選ぶことと、完パケにして伝えることはまったく別の話です。
マスメディア、映画、書籍などは、物理的に完パケにするしかないし、それが役割でもあるからそれでいいけれど、ライブ感覚を発現させる可能性を秘めた「空間」がそれを捨てて完パケとして固まってしまうのはいかにももったいない。
メディア空間には「空間で語る」「体験で伝える」という性能が与えられています。観客を特別な空気で包み、情報を浴びる♀ツ境をつくることだってできる。この性能を活かして、完パケでは為し得ない情報環境を目指すべきだ。ぼくはそう考えているんです。