完パケとは同一情報を大量安定供給するためのシステムです。
だから、情報の大量安定供給を使命とするマスメディアは当然完パケになる。それはわかります。でも、それとは真逆の使命を負っているはずのメディア空間も、なぜかその多くが完パケとしてつくられているのです。
とりわけ展示を中心にした情報空間は、ディズニーランドに限らずほとんどが「完パケ送達型」だと言っても言い過ぎではないでしょう。
ライブは一回限りで再現不能だけれど、一度つくれば壊れるまで同じ状態を維持する展示は、同一・同質の情報内容を安定供給できる。しかし、それと引き換えにインタラクティビティに問題を抱えている。前にそんな話をしましたよね。
完パケ空間の典型として美術館の話もしました。美術館展示の多くは作品をシナリオ通りに見ていくもので、「観賞のしかた」まで含めて情報をパッケージにして送り出している。「結論を伝える場所」になっているから発見のプロセスに参加できないし、図録や教科書と同じ構造は「学習」には最適だけど「対話」にはならない。そう言いました。
川崎市岡本太郎美術館はそんな状況に対するアンチテーゼを込めてつくったものですし、リスボン国際博日本館では観客を「情報を受け取るだけの存在」と見なすことをやめて、「心理的な応答関係」を取り結ぶ情報環境を模索しました。
これらの展示は決して完パケではありません。映画のように、あるいはジャングルクルーズのように、「いつなにを見るか」=体験内容があらかじめFIXされているわけではないし、出来事がシナリオ通りにリニアに連続していくわけでもないからです。むしろ逆であって、観客が自ら「監督」になってシーンを切り取り、自ら編集して文脈をつくることを前提として空間がつくられている。
もちろん、狙った通りのパーフェクトなものが実現したなどと言うつもりは毛頭ありません。世の中そんなに甘くない(笑)。ただ、少なくとも、できる限り完パケから離れたいと願いながらつくったことだけは確かです。