こうした状況を踏まえたとき、空間というメディアを通して情報交通に関わろうとする者は、いったいどんな戦略と心構えをもつべきなのでしょう?
ぼくは大きく三つあると考えています。
第一に「情報を塊にして届けようと考えない」。
情報を堅牢なパッケージに包んでガチガチに固め、それをそのまま丸飲みさせようと考えない方がいい、ということです。
情報をSolidな塊にしてしまうと、受け手の行動はそれをそのまま飲むか飲まないかを選択することから先にはなかなか進みません。送り手が用意した情報を完成品として受け入れるだけでなく、素材やパーツとしても活かせるようなある種の柔らかさ、ルーズさをもつべきだと思うんですね。
二つ目は「情報の送り手と受け手という枠組みから発想しない」。
送り手が受け手にメッセージを打ち込み、それで相手をねじ伏せるのだ、などとは考えない方がいい、ということです。
もちろん、情報を伝えたい者が空間をつくり、それを受け取りたい者が会場に足を運ぶわけですから、Wikipediaと違ってメディア空間には送り手と受け手の立場が厳然とある。しかし、だからといって、目指すのは受け手の洗脳であり操作だ、みたいに考えるのは間違っています。情報は相手に「打ち込む」ものではなく、「Share」するものだという前提で構想するべきなのです。
最後、三つ目は「伝えたら終わり≠ニ考えない」。
相手は情報を吸収するだけのスポンジだ、などと思わない方がいい、ということです。
いまや観客は吸音材ではなく反響板のようなもの。一人ひとりが、受け取った情報を転送したり変形したり増幅したりしながら、情報とアクティブにかかわっていく、一種のメディアです。「伝えたら終わり」ではなく、「いかにして彼らの次のアクションを誘発するか」を考えるべきなのです。
以上の三つが、メディア空間を考えるときの、ぼくの基本態度です。