最初の「情報をSolidな塊にしない」という考えのベースにあるのは「あえて完パケにしない」という発想です。
「完パケ」ってわかりますか? 「完全パッケージメディア」の略で、元はテレビやラジオなど放送業界の用語です。映像編集や音声収録などの作業をすべて終え、放送できる状態に完成したものを指す言葉で、いつでも送り届けられるように情報がパッケージ化されていることを意味しています。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、映画、小説……、マスメディアをはじめぼくたちが日常で手にする情報の大半は完パケとして届きます。ストーリーはすべて情報の送り手がつくったもので、それが塊となって送達されてくる。繰り返しお話しているように、ぼくたちにできることは見るか見ないかを選ぶこと、そしてそれをそのまま消費することだけです。
当たり前だけど、完パケは制作者の意図に沿って構成された成果であり、ぼくたちはそれをそのまま追体験するわけですね。
たとえば、昨年公開されて評判になったマーティン・スコセッシ監督の「シャイン・ア・ライト」―ローリング・ストーンズのステージを追ったドキュメンタリー映画です―のなかに、ミック・ジャガーが歌いながらロン・ウッドにちょっかいを出すシーンが出てきます。ロン・ウッドはキース・リチャーズの弟分だと思われているし、実際そうなのだろうけれど、このシーンを見ると、ミックもロンを信頼してかわいがっていることがよくわかって、微笑ましい気持ちになります。
これは明らかに監督が二人の関係性を描こうとして挿入したシーンで、観客はこれを見ておそらくは彼の思惑通りに反応するわけですね。
もちろん、そのシーンからまったく別の意味を汲み取ってもいい。受け取り方は自由です。どんなに優れた監督でも、そこから「なにを感じるか」「どう解釈するか」まで強制することはできません。でも「いつなにを見るか」を決めるのはあくまで監督であって、観客ではない。
これが「完パケ」です。体験内容があらかじめすべてFIXされている、いわばルートを決められた散歩のようなもの。映画は典型的な完パケ情報です。