いまの話の中に出てきたフレーズを、もう一度並べてみましょう。
・情報は与えられるものではなく、獲りに行くもの
・情報は生け簀の中で泳いでいるから、いつでも手を伸ばせば届く
・情報は「選択」するものから「探索」したり「捕獲」したりする対象に
・情報は変形自在でやわらかく、いつも流動しているLiquidな存在
・情報は使いたいときに使いたいものを集め、それを好きなように料理すればいい
・情報は素材であってみんなのもの。共有されるべきものであり、共通の資源
・情報を発信できる選ばれたエリートが大衆を一方的に啓蒙する時代は終わった
・情報は受け取ったら反応するのが当たり前。情報交通の基本原理は「連鎖」と「交換」
・情報をコネクトし、シェアすることこそがみんなの利益であり、資源になる
いかがでしょう? 改めて眺めてみると、やはりマスメディアの時代とはまったく違う、というよりまるで逆の感覚がぼくたちの身体(ルビ:からだ)のなかに確かに息づいていることが実感されるのではないかと思います。
もっとも、いうまでもないけれど、白だったものがある日とつぜん黒になった、みたいな話をしているわけではありませんよ。そこは誤解しないでくださいね。
ぼくが言いたいのは、ぼくたちの情報感性に新しい種が蒔かれ、芽を吹きはじめているということであって、身体の中には従来の感覚もそのまま残っているし、マスメディアのパワーも依然として大きいままです。
とはいえ、新たに別方向の加速度が加わったことは間違いない。慣性があるから急角度で針路変更することはないかもしれないけれど、変化の動きは止められないし、おそらくこの先、まさに加速度的に変わっていく可能性が高いと思います。
メディア空間をつくる者も、当然ながら、この環境変化を無視できない。これに応えて手を打たなければなりません。