なぜぼくたちは情報の交換をはじめたのか、その先にいったいなにを見ているのか。
根底にあるのは、「知の共有」「経験の共有」そして「集合知」への期待だとぼくは考えています。
たとえばオーディオやパソコンを買うとき、ちょっと前まで、ぼくたちが参考にできる情報といえば、雑誌の評論家レポートくらいしかありませんでした。でも、いまはネット上に集積されているユーザーレビューを頼る。アマゾンで本を注文するときにはカスタマーレビューを読むし、ヤフオクで入札する際には過去の評価で出品者の信頼性を計ります。
一握りの専門家の判断よりも、一般ユーザーの体験情報の集積結果の方が正しいし、役に立つと考えはじめているわけですね。これがいわゆる「集合知」の考え方で、Wikipediaの基本原理です。
そこにあるのは、選ばれたエリートだけが情報発信を許され、その特権的立場から大衆を一方的に啓蒙する時代は終わったという認識と、それぞれの体験情報をコネクトし、みんなでシェアすることこそがコミュニティの利益になるし、資源になる、という発想です。
「知の共有」と「体験の共有」。まさにグーグルの価値観ですね。
「情報の交換と共有」の日常化は、従来では考えられない事態も引き起こしています。たとえば、突然、情報が自律運動をはじめ、気がついたら大化けしているなんてことが起こる。
「電車男」や「生協の白石さん」がまさにそうですよね。もとは個人の小さな出来事だったのに、ネット上での情報交換が進むうちにいつの間にか特別なコンテンツに化けていった。しかもその間、テレビ、雑誌、書籍、映画など、メディアを跨ぎながらスパイラル状に情報が連鎖し、拡大再生産されていきました。
なにかがきっかけになってスイッチが入ると、情報が自律運動をはじめ、正の回転を続けながらどんどん育っていく。「電車男」のようなモンスーン級から小さなコミュニティ内のレベルまで、ネットを介した「情報の渦」が毎日無数に生まれています。
根底を支えているのは皆で情報をシェアしようとする感性です