数あるメディアの中で空間だけが取り扱うことができるもの、それが「空気」です。
そのときその場に立ち現れ、瞬間に消えていく空気は、空間コミュニケーションを支えるもっとも基本的な構成原理です。シズルって要するに空気感のことですからね。先ほどご紹介したぼくの仕事も、結局はそのときだけの特別な空気感をつくることに腐心していたわけです。
その特徴は再現不能だということ。
ライブコンサートを考えればわかるように、そのとき会場に流れていた空気感をもう一度再現しろといわれても、絶対に不可能です。ライブコミュニケーションは常に一回限り。空気は「冷凍」も「複製」もできないし、「保存」も「輸送」もできません。
プリントメディアははじめから複製だし、テレビやラジオも録画・録音しておけばまったく同じ状況を再現できる。インターネットを流れる情報もログとして保存できます。でもライブコミュニケーションはそうはいかない。コンサートのDVDを観たところで、その場を包んでいた空気感まで追体験できるわけではありません。
そこが他のメディアと決定的に違うところで、空間メディアの最大の魅力であり、リスクでもある。
つまりメディア空間は「空気という情報」を扱っているわけですね。言い換えれば、空間というメディアは、“空気を”伝えたり、“空気で”伝えたりすることができる。その空気に全身で触れるから実感がこみ上げてきて、“腑に落ちる”。
ただし、こうした空気感は情報の送り手と受け手が一緒になってつくり出すものなので、宿命的な制約があります。それは情報の接触数とコミュニケーション密度が相反関係にあるということ。同じコンサートでも、観客とアーティストのダイレクトなコミュニケーション密度は、観客が5人の路上ライブと5万人の東京ドームでは比較になりません。
乱暴にいえば、路上ライブではミュージシャンの視界の1/5を専有できるのに対して、東京ドームでは1/50000にまで小さくなってしまう。前者では奏者の目の動きまで追えるし気軽に会話ができるけれど、後者では遠くに数センチの大きさで見えるだけで、どんなに大声で叫んでも声が届く望みはありません。