前にも言いましたが、リアルな空間に人を集めてコミュニケートするという方法は、多くの手間と時間を差し出さない限り、なかなか実現しません。この意味でいえば、はっきり言って、高コストで効率の悪いメディアなのです。
それでも空間メディアが無くならないのはなぜか?
それは、空間だけが “わかる”メディアだから。ぼくはそう考えています。
「知る」と「わかる」は違いますよね。「知っていること」と「わかったこと」は同じではない、と言い換えてもいい。
必要なInformation(ルビ:情報)にアクセスさえできれば、誰でもとりあえず「知る」ことはできます。それこそインターネットが得意とするところで、しかもそのほとんどはタダ同然。インフォメーションならいくらでも手に入るし、知るために要するコストは劇的に下がりました。
でも、だからといって“わかる”わけではない。どんなにネットで調べようが、ガイドブックを何冊読もうが、行ったことのない街をリアルにイメージすることはできません。
実際に自分がその街に行って、街並みに包まれ、街の音を聞き、街の匂いを嗅ぎ、いろいろなものに触り、そこにいる人々の表情に接し、風を浴びて、はじめてその街のことがわかる。人は経験のないことはイメージできないんですね。
「畳の上の水練」ということわざがあります。「理屈はわかっていても、実際には役に立たないこと」という意味ですが、畳の上でどんなに練習をしたところで、結局は、実際に水の中で練習しなければ泳ぐことはできないことがその由来です。
いまならさしずめインターネットでしょう。クロールの泳法図解をダウンロードしただけでは泳げない。
もちろん、インターネットで得られる情報には意味がないと言っているわけではありません。「知る」うえでは最良の手段です。でも「わかる」かどうかは別の話。
要は、「餅は餅屋に」なんです。