会場に入ると、中央をまっすぐに伸びるシンボリックな光のラインが視線を捉えます。光に沿って前方に目をやると、その先には満面の笑みを浮かべた敏子が中空に浮んでいる。さらにその奥には「駆け抜けていく太郎」。そう、『祝葬』のときの、あの写真です。紗幕という透ける素材を使っているので、前後に吊られた二人の姿が、奥行きをもって同時に見えているのです。
伯母はとつぜん亡くなったけれど、無念でもなければ悔いもなかったと思います。絶対に悲しんではいない。それどころか、また太郎さんと一緒になれて、飛び上がって喜んでいるはずです。ぼくにはわかります。
敏子はぼくたちの前から姿を消してしまったけれど、それはつまり太郎さんに呼ばれたから。だからこの際、敏子を呼んだ太郎さんにも登場いただかなければならない(笑)。葬儀の遺影に別人が重なって見えるなんて常識ではあり得ないことだけど、それでいい。
空間そのもので文脈を語りたかったからです。この空間に身を置いただけで、いまお話した文脈が説明なしでわかる。それを狙ったわけですね。
光の帯の両側には発光するボックスが花畑のように広がっていて、中央には白く光る光の輪が見えています。
左右のボックスで光っているのは、太郎と敏子の50年にわたるポートレイトです。二人が生きた濃密な時間を肌で感じて欲しくてつくりました。一方、中央の「光の輪」は、この中に入ると敏子の声が聞こえてくるんです。嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに太郎さんについて語る敏子。
正面に見える二人は遺影だから、モノトーンでリジッド。でも聞こえてくる敏子の声は情感豊かに躍動している。その落差が“去ってしまった敏子”を実感させる。
駆け抜けていく太郎さん。そこに向ってまっすぐ伸びる光の参道。50年の時間を象徴するイメージ群。笑顔の敏子。光の輪。躍動する声。
すべてが一体となってこの空間の意味と文脈を語っているわけです。