太郎さんが亡くなって9年後の2005年4月、敏子は急逝しました。亡くなる当日まで元気いっぱいでしたから、文字通りの急逝。太郎さんの巨大壁画『明日の神話』を日本へ移送するためにメキシコに行っていたぼくは、成田で訃報を聞きました。ちょうどその日だったんです。
敏子は50年という時間を太郎さんと生きただけでなく、岡本太郎の最大の理解者であり、ともに闘った“戦友”でした。太郎さんが亡くなった後は、半ば忘れられていた岡本太郎を次の時代に遺したいと東奔西走し、みごとに「太郎再生」をやってのけた。
そばで見ていると、日に日に太郎さんに似てくるんですよ(笑)。みんなそう感じたようで、冗談半分に「太郎巫女」と呼ばれていました。
そんな人なので、美意識も人生観も太郎さんと寸分違わない。だから、普通の葬式を出して喜ぶわけがない。こうしてぼくは、再び「葬式ではない葬儀」をつくらなければならなくなったわけです。
もちろん太郎と敏子は違います。敏子はアーティストではないから、芸術作品を残したわけじゃありません。秘書として、また人生のパートナーとして太郎さんを陰で支えてきた人ですからね。そんな敏子に相応しい送り方を考えようと思いました。
これがその会場入口です。2005年6月18日、場所は青山のスパイラルホール。
基本哲学は草月会館のときとなにひとつ違っていません。「惜しい人を亡くしました」ではなく敏子と語る場にする。名前は、もちろん『岡本敏子と語る広場』です。
問題は、一連の空間体験の基盤を支える“基本言語”をどうするか。太郎さんのときには、岡本太郎という存在そのものを含めた「作品」がありました。空間を埋めつくしていたのも、最後の鐘もみな作品です。
それに代わるものはなにか。ぼくは「言葉」だろうと思いました。太郎さんの口からほとばしり出る言葉を必死でメモに書き留め、彼の著作をたくさんつくった敏子は、まさに言葉を武器に闘い、言葉で太郎を支えた。だから敏子を「言葉」で送ろう。そう考えたんです。