《 日本ジャズ再発見 》
1970年代の日本のジャズは、汲めども尽きせぬ財宝がまだ眠る音楽の玉手箱だ。恥ずかしながら僕自身、大学では軽音楽部に属し、プロのジャズ・ミュージシャンを目指したことがあるけれども、その頃もっとも気になっていたのが、70年代の日本のジャズだった。必要以上に尖ろうとしていた僕は、ろくにオーソドックスなモダン・ジャズもこなせないくせに、フリー・ジャズばかり追いかけていた。でも、ジャズの魔力がどんなものかだけはわかっていたから、あれやこれやと聞き漁ったあげく、どうやらここへと辿り着いたのだった。それからだいぶ時間は経ったけれども、ときたまこの時期の音源が再発されると、やはり手を出さずにはいられず、その良さを噛み締めてはひとりほくそ笑んでいたわけだが、それがこうして晴れて一文を寄せることになるとは驚きだ。しかも、それが同じ岡本太郎の遺した仕事におおいにインスパイアされる仲の平野暁臣によるプロデュースとは! 同志というのは案外身近にいるものだ。
せっかくの機会なので、この時期の日本のジャズがなぜ、これほどまでに高水準な次元に達することができたのかについて考えてみたい。時代的には、それこそ岡本太郎が千里の丘に打ち立てた「太陽の塔」に象徴される大阪万博の未来像が、あさま山荘事件、オイルショック、公害問題、オカルト・ブームなど、立て続く社会不安のなかで、容赦なく木っ端微塵にされている。海外のジャズに目を向ければ、ジョン・コルトレーンという精神的にも方法論的にもジャズの先導者を失い、そのあとを継ぐと目されたアルバート・アイラーが突然、ニューヨークのイースト・リヴァーに遺体で浮かび、公民権運動と結びついた熱っぽいフリー・ジャズが急激に失速した頃合いにあたっている。長くジャズの未到野を歩んできたマイルス・デイヴィスは単独、エレクトリック・ジャズを切り開き、それはのちにフュージョンとして一世を風靡することになる。つまり、1960年代のように世間は音楽を後押ししてくれない。条件としては決してよくないのだ。
そんな負の背景のもと、フリー・ジャズにひきづられることもなく、エレクトリック・ジャズに走ることもなく、いったんは見放されかけたジャズのジャズたるゆえんへと、まるでアウトサイダーの求道者のように身を費やしたのが、この時代の日本人によるジャズだった。
共通する問題意識は、日本人がジャズをやるということは、どういうことか、というものだったように思う。若い世代のミュージシャンは、東京オリンピックや大阪万博をきっかけに急速に身近なものとなった海外、なかでもジャズの原点となるアメリカに渡るようになり、そこで初めて、「ジャズを演奏する東洋人」にほかならなかった自分を発見する。アメリカ南部の奴隷の子孫でもなく、クラシックの素養を持つヨーロッパの直系でもない日本列島の民にしかできないジャズとは、いったいなにか——きっと、そう強く促されたことだろう。ちょうど同じ頃、日本はのちにニュー・ミュージックを生み出すことになる新たなロック・ミュージックの黎明に当たっており、そこでの問題意識は、それまで拙い英語で歌っていたロックの歌詞を、どうすれば身近な日本語に置き換えられるかというものだった。そこで最初の成功を収めるのが、のちに歌謡曲の世界でも大成功を収めることになる松本隆や細野晴臣を擁する「はっぴいえんど」であったのは言うまでもない。
この頃の日本のジャズにも、僕はこれとよく似た試みと魅力を感じるのだ。むろん、そこに言葉の壁はない。けれども、ジャズというのは人間の肉声に器楽でもっとも生々しく迫った音楽だ。日本列島なら日本列島に根付いた身体が持つ息遣いや節回し、そして躍動感などが反映しないはずがない。事実、このたび世に出された一連の録音を改めて聞いたとき、そこに国土こそ狭いものの、島国ゆえの無限の襞と抑揚を随所に畳み込む日本列島ならではの細やかな表情や、儚い哀愁の写し絵を、にもかかわらずジャズを通じて感じないではいられないのだ。
僕には、こうして方法だけでなく「風土」を意識した日本での最初のジャズが、今回紹介される一連の演奏のように思えて仕方がない。そしてそれは、パリから日本へと戻った岡本太郎が、マルセル・モースの教えを武器に次々と「日本再発見」を果たし、ここ日本列島でしかありえない新しい芸術を見出していくのと、とてもよく似ていると僕は思う。
椹木野衣(美術批評家/多摩美術大学教授)
1. Minors Only/本田竹曠
1970年代を駆け抜けた我が国屈指のピアニスト本田竹曠。1969年、若干24歳で〈トリオレコード〉と専属契約を交わし、数々のリーダーアルバムを発表してきた本田が、28歳で〈イースト・ウインド〉に残した唯一の作品が本作だ。サイドを固めるのは、マッコイ・タイナーバンドで活躍したジュニ・ブース(b)と、ウェザーリポート2代目ドラマーのエリック・グラヴァット(ds)。菊地雅章が凱旋公演に帯同したふたりを起用して日本で録音された。全力疾走する3人が空中分解せずにギリギリのところで踏みとどまっている。全編にわたって上質な緊張状態がつづく名演だ。2006年没。
2. Recollection/峰厚介
1970年、26歳で〈Three Blind Mice〉の第一弾を任され、そのアグレッシヴな演奏でシーンの先頭集団に仲間入りした峰厚介。同年、スイングジャーナル誌の人気投票アルトサックス部門で、いきなり渡辺貞夫に次ぐ第2位に躍り出た。その後、峰はアルトをテナーに持ち替え、さらにパワーアップを果たす。『Out of Chaos』は、1973年に鈴木良雄と渡米した峰が、上述の菊地雅章凱旋公演に出演するために8ヶ月ぶりに帰国した際、菊地とともに録音した作品。峰のスリリングなプレイは、当時、多くのジャズファンを熱狂させた。この曲は、大ヒットした映画『スウィング・ガールズ』の重要なシーンにも使われている。
3. 驟雨(Drizzling Rain)/菊地雅章
渡辺貞夫とならんで日本ジャズ界のレベルアップにもっとも貢献したのは菊地雅章だろう。峰厚介や鈴木良雄などのすぐれたプレイヤーを育てただけでなく、本場アメリカとの距離を縮める役割を果たした。1973年、菊地はエルビン・ジョーンズのグループにレギュラーメンバーとして迎えられ渡米。以来、最期まで米国で活動し、多くの日本人ミュージシャンに足場を提供した。このアルバムは渡米前夜にビクター・スタジオで公開録音されたもの。「驟雨」は日本的な響きをもつ曲だが、けっして安易な“ジャパネスク”に堕していない。当時の日本人ジャズの水準を証明する演奏だ。2015年没。
4. Vichakani/渡辺貞夫
1965年に最新のジャズ理論をひっさげ米国から戻った渡辺貞夫は、ジャズのメインストリームを追求する傍らで、新たな表現世界の開拓に乗り出す。60年代後半のボサノバにつづいて、70年代初頭に取り組んだのがアフリカだった。70年代前半の渡辺は、自らのアフリカ体験を発酵させたアフリカン・フレイバーのジャズの創造に傾注する。タイトルはスワヒリ語、旋律やリズムも現地の民俗音楽を元にしたもので、伝統的なジャズとは大きく位相の異なるものだった。その実験精神が唯一無二の独創性をひらく。1975年録音の本作はその典型だ。脇を固めるのは“渡辺スクール門下生”にして当時のトッププレイヤーたち。世界にも似たサウンドはない。
5. In the Darkness/日野皓正
幾重にもトライアルを積み重ねて高い完成度を目指すスタジオ録音とは対照的に、そのときその場の空間エネルギーをそのまま保存するライブ録音は、駄作に陥るリスクと引き換えに、ときに歴史的名演を生む。1975年4月8日の根室を記録した『Wheel Stone』は、まさに後者の典型だ。日野皓正が渡米直前に行った“サヨナラ・コンサート”ツアー。ライブ盤に選ばれたのは6日後の東京公演だったのだが、のちに“根室の熱”が伝説となり、4年後にこの根室公演がリリースされた。安っぽいバラードとは対極的な「In the Darkness」のピンと張りつめた緊張感とスリルは、日本ジャズが到達したひとつの頂点だと思う。
平 野 暁 臣
〈Days of Delight〉Founder/Producer
品番:PROZ-4021
定価:\2,500(+tax) |